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第7話 雨の日、剣を抜かない人

Author: 春野ケイ
last update publish date: 2026-11-01 05:46:58

朝から、雨だった。

窓を叩く音で目を覚ました俺は、ベッドの中でしばらく天井を見ていた。

『雨の日は剣を抜かない。理由は誰にも話していない。』

昨日の夕暮れ、空を見上げたアルベルトの横顔を思い出す。「明日は、降るな」と言ったときの、少しだけ低くなった声。

(……考えるな。俺には関係ない)

関係ない。そう決めたはずだ。推敲方針、その三。もう二重線だらけで読めないけど。

「リュカ様、本日の予定ですが」

トマが、ぬるめの紅茶と一緒に羊皮紙を差し出してきた。

「午前中に、二年の委員推薦の件で三名とお約束を。昼食はロシェ伯爵家のご子息と。午後は騎士科との合同剣術授業がございます」

「合同授業……」

二年の剣術は、三年の騎士科と合同で行われる。本文では、リュカがミシェルの木剣に細工をする場面に使った授業だ。もちろん、今回はやらない。

「雨天ですので、屋根付きの演武場で行われるそうです」

「わかった」

午前中の根回しは、拍子抜けするほど順調だった。

収穫祭の準備委員に、ミシェル・ローランを推す。そう言っただけで、取り巻きたちは目を丸くして、それから競うようにうなずいた。

「リュカ様が、あの特待生を……?」

「何か問題が?」

「い、いえ! まったく!」

悪役令息の人望は、こういうときに便利だ。中身は恐怖政治だけど。

そして、午後。

屋根付きの演武場には、雨の湿った匂いが満ちていた。高い天井に雨音が反響して、木剣の打ち合う音をくぐもらせている。

二年と三年が組になって、型の確認をする。俺の相手は、騎士科の名前も知らない三年生だった。たぶん、余白の住人だ。

型をなぞりながら、俺の目は、無意識に演武場の端を探していた。

いた。

アルベルトは、壁際の柱にもたれて立っていた。木剣は、足元に置いたまま。教官も何も言わない。

「グランツ様、また見学か」

「雨の日はいつもだよな。体調が悪いって話だけど」

「首席様は気分屋なんだよ」

周りの生徒たちが、小声でささやき合っている。

知らないのだ。誰も。

アルベルト自身が、誰にも話していないから。

そのとき、演武場の中央から、わざとらしいほど大きな声が響いた。

「グランツ! 見学ばかりでは退屈だろう。一本、手合わせ願おうか」

ヴィクトル・ラング。伯爵家の嫡男で、騎士科の次席。

本文では、アルベルトに一方的に対抗心を燃やす小物として、二巻で少しだけ登場させた。剣術大会でアルベルトに負けて、捨て台詞を吐いて退場する役だ。

演武場が、しんと静まった。

アルベルトは柱から背を離さないまま、静かに答えた。

「断る」

「なぜだ? 雨の日だけ剣を抜かないのは、何か理由があるのか?」

ヴィクトルは、にやにやと笑いながら近づいていく。

「それとも、雨が怖いのか。首席様ともあろう方が」

周りから、くすくすと笑い声が漏れた。

アルベルトの表情は、変わらない。何ひとつ、変わらない。

でも、俺には見えた。

足元の木剣の横で、彼の左手が、きつく握りしめられているのが。

指の関節が、白くなるほどに。

――気づいたときには、体が動いていた。

「ラング先輩」

ヴィクトルが振り返る。俺の顔を見て、意外そうに眉を上げた。

「ベルナールか。なんだ、お前もグランツを笑いに来たか?」

「いいえ」

俺は、にっこりと笑ってみせた。

本文で何百回も書いた、リュカ・ベルナールの、一番感じの悪い笑顔を。

「先輩の今の発言、ベルナール侯爵家の名前で、教官に正式に記録していただきましょうか。授業中に見学者へ私闘を強要した、と」

「なっ……」

「次席の方が、首席に私闘を挑んで断られた。そういう記録が残ったら、卒業後の騎士団の配属に響くかもしれませんね。お気の毒に」

ヴィクトルの顔が、みるみる赤くなった。

悪役令息の脅しは、本文で書き慣れている。こういうときに使うために書いたわけじゃないけど。

「……ちっ。冗談の通じない奴らだ」

捨て台詞を吐いて、ヴィクトルは去っていった。二巻と同じ退場の仕方だった。

演武場に、ざわめきが戻る。

俺は小さく息を吐いて、振り返った。

アルベルトが、こちらを見ていた。

「……礼を言う」

「いえ。別に、グランツ様のためじゃないです。ああいうのが嫌いなだけで」

半分は本当だった。もう半分は、自分でもよくわからない。

アルベルトの左手は、まだ握りしめられたままだった。

雨音が、演武場の屋根を叩き続けている。

その音を聞きながら、俺は、設定資料の一文を思い出していた。

九歳の雨の日。彼の乳兄弟だった少年のこと。

本文に書けなかった、この人の一番深いところ。

だから、たぶん、気がゆるんでいたのだ。

「……怖いからじゃないのは、わかってますから」

ぽつりと、口からこぼれた。

「守れなかった人のことを、思い出すからでしょう」

言ってから、凍りついた。

演武場の雨音が、急に遠くなる。

アルベルトの顔から、すべての表情が消えていた。

次の瞬間、手首をつかまれた。

強い力だった。痛いくらいに。

「ベルナール」

低い声。初めて聞く声だった。本文のどこにも、書いたことのない声。

青い瞳が、すぐ目の前で、俺を射抜いている。

「お前、なぜそれを知っている」

――書いたからです。

とは、言えなかった。

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